6月3日、グリーンアクティブは福井県小浜市にて「ニソの杜から日本の未来を考える」シンポジウムを開催しました。大飯原発の立地する福井県おおい町大島半島に残る「ニソの杜(モリ)」を見学するツアーと、小浜市文化会館でのシンポジウムで構成されたこのイベントは、多くの参加者と反響を呼びました。そのレポートをお届けします。
6月3日午前9時半、JR小浜駅に大勢の人が集まりました。福井県おおい町大島半島に残る「ニソの杜」を見学するツアーに参加するためです。
柳田国男が「神社の原型」と呼ぶニソの杜は、民俗学上大変重要なスポットであり、祭礼以外では足を踏み入れることが禁じられています。その正体はタブの木を中心にした照葉樹林の古風な森。それぞれの杜は複数の家族によって世話され、霜月(11月)に持ち回りでお参りを行います。その後、祭祀当番の家に集まり、小宴(ニソ講)が開かれます。
ニソの杜は、もともと24名(みょう)の開拓先祖を祀ったもので、ささやかな祠があるものもあれば、樹木そのものが杜の核となっているものもあり、そのかたちはさまざまです。積石古墳に覆われた杜や、最近まで墓所として使われていた杜もあり、その意味で日本人古来の死生観を反映している聖地ともいえます。現在32カ所が確認されていますが、いまでは祀りを受け継ぐ家も減り、ニソ講も簡略化されている現状があります。
今回のツアーでは、福井在住の民俗学者・詩人で、ニソの杜への造詣が大変深い金田久璋氏に、4つのの杜を案内して頂きました。
青戸の大橋を越え、最初に訪れたのは「瓜生の杜」。車道脇の茂みのなか、枝葉を伸ばす木々の奥に、まるで隠れるように小さな祠が祀ってありました。明確な境はありませんが杜は禁足地、足を踏み入れないように注意が要ります。
ここで金田氏からニソの杜の祀りについての基本的な説明がありました。一年に一度、11月(霜月)22日の夕刻から23日にかけて、男女2人一組でお参りし、小豆飯としとぎをお供えする祀りが行われます。その際、魔除けの刃物をもち、帰り道は振り返らない、草一本ももち帰ってはならない、という厳格な決まりがあるのです。そこには「黄泉の国」神話や葬送儀礼と同種の心性が働いています。
瓜生の杜から少し車を走らせると、井上の杜に着きます。祠はなくタブの木自体が杜となっていますが、竹藪に紛れているため識別は困難です。この杜はヒガンジョ古墳群の上に立っており、杜の裏の藪地には横穴石室の名残りである巨石が散らばっています。ここには、かつて火の雨が降ったとき村人が石室に逃げ込んだ、あるいは追われる人が追っ手をやり過ごすために身を隠したなど、アジールの役割を果たしていたことがわかる伝承が残っています。付近には少し前まで土まんじゅうがあり、散埋の文化があったと見られていることからも、杜と死が密接な関係にあったことが推測されます。
上野の杜については同名の杜が3カ所確認されていますが、そのうちのひとつを訪ねました。ニソの杜は、お参りのしやすさから山頂ではなく山麓にある場合が多く、ここもそうした杜のひとつです。タブの木、藪肉桂、椎などの密生した照葉樹林に、札のついた小さな祠が静かに佇んでいます。その姿から、いまも大切に祀られていることがわかります。杜の小高いところには、烏勧請(からすかんじょう)という神事を執り行う場所があります。天と地をつなぐ役割をもつ烏に供え物をし、食べてもらう(まかる)ことで祖霊に感謝を示す役割があるのです。
上野の杜から海岸へ5分ほど歩いた脇の竹藪に、浜禰の杜があります。祠こそないものの、辺りは静謐な空気に満ちていました。ここは榎、キノコ類など豊富な生態系が観察され、周辺には製塩遺跡も残っている、きわめて重要なスポットです。人骨が発掘されたことから、井上の杜と同じく埋葬地であったと考えられます。リゾート開発によって車道ができる以前は杜のすぐ近くまで浜辺が迫っていたそうで、山麓に多いニソの杜のなかでも珍しい存在です。
この杜の中心にあるタブの木は、枯れた後のひこばえが育ったものか、比較的若い樹木でした。その姿は金田氏の語る「優れた地球環境モデル」としての杜を体現している一方で、すぐ裏には大飯原発が建っています。その事実に、大きな矛盾と言葉にならない感情を抱きました。
この日、偶然にも杜を継承する地元の方がお見えになり、お話を聴く機会に恵まれました。祖母の代から語り継がれるニソの祀りや浜辺の土葬の風習、多額の助成金が支給され周辺がリゾート地として整備されたこと、ニソの杜の存在が忘れられ観光客だけでなく地元の人間でさえも杜にゴミを捨てていく現状など、いまニソの杜が直面している問題を知ることができました。
ニソの杜は日本文明のルーツにもつながるであろう、他をもって代えることのできない文化遺産です。その杜のすぐ隣に、大飯原発という生態圏外のエネルギーをあつかう施設が存在している。こうした矛盾に直面しているのが、私たち日本人の置かれている状況なのではないでしょうか。この問題にどう向き合っていけばいいのか、ニソの杜はそのこと考えるための大きなヒントを与えてくれているように思えてなりません。
同日午後には小浜市文化会館で、いとうせいこう氏を司会に迎え、金田久璋氏、中嶌哲演氏、松村忠祀氏、中沢新一氏で「ニソの杜が日本に問いかけるもの」シンポジウムを開催。ニソの杜から原発を考える第一部と、私たちは未来ヘ向けてどうすればいいのかを考える第二部での構成となり、ニソの杜のもっている意味から脱原発運動まで、じつに射程の広い話し合いがもたれました。
昨年の東日本大震災とそれによって引き起こされた大津波、その後の福島第一原子力発電所の事故によって浮き彫りにされたように、今日の日本人は、自然との循環が残されている第一次産業を営む一方、そうした循環を断ち切ったところでエネルギーをつくり出し都市生活をおくってもいます。そのような私たちにとって、古来からの日本人の信仰形態をいまに伝えるニソの杜と原発が隣接する大島は、大変に重要かつ象徴的な土地です。大飯原発再稼働に対してただ「脱原発!」と叫ぶだけではなく、それを取り囲んでいる自然や文化を、歴史のなかでしっかりと捉えていくことなしには、本当の意味でのエネルギーシフトは為しえないのかもしれません。
「こうした大島のような場所に限って、なぜ原発がつくられるのか」、いとう氏が投げ掛けた問いです。日本各地の重要な聖地のほとんどは風光明媚であると同時に孤立した場所が多いといいます。大島のように船でしか行き来のできない土地、交通の遮断されている土地、そうした場所に航路・道路を設けること、それが原子力発電所設立の条件のひとつとして提示されてきました。つまり原発が建てられるのは、高度経済成長期に取り残された、古いタイプの居住地であることが多いのです。
橋がかることによって、町は大きく変わります。たとえば瀬戸内海にある周防大島は橋を架けることを受け入れました。すると、あっという間に本土と同じ状態になってしまったそうです。橋が渡されることで24時間絶えることのない交通が生れます。一方、周防大島のすぐ近くにある祝島は、橋を架けないことを選んだ島です。祝島にはいまも独自の文化と環境が残されています。道路や橋はたしかにある種の利益をもたらしますが、同時にそれによって失われるものもある。その失われるものが何であるのか、それは本当に失われていいものなのか――ニソの杜を見たあとだからこそ、このことを問わずにはいられません。
「ニソの杜がある若狭の海岸線に、しっかりとした照葉樹林が残っていることを、未来のためにどのように考えていくのか。それは文化、経済全部を含めて、皆で考えることだ」。原生林の残る福井県の雄島を代々守っている大神神社の宮司・松村忠祀氏の発言です。原生林を巨大な財産として考えること――この問題はけっして一地域だけのものではありません。
そもそも、なぜ人は森を聖なるものとしたのでしょうか。金田氏は原始的な祭りに見られる巨木信仰の重要性を指摘します。そのことを受け、いとう氏は「巨木信仰にあるように、木を通してなくなった人が天に返っていき、また天から木を通して人が生まれてくるのであれば、それは森を通した循環ではないか」と問いました。森とは全体をなすものであり、そこでは一つの生物が、他のあらゆる生物に影響を及ぼしています。こうした意味において、森を切り開き田畑で農業を営む思考方法と、森のなかに分け入っていく狩猟採集民の思考方法とは異なります。「森を切り開いた知性はA-B-Cという単純な因果関係で結びつける線形思考となるが、他方、森にはこうした思考方法は使えず、南方熊楠に従えばそれは『マンダラ』であり、『マンダラ』は全体的で重層的で動いているものの瞬間瞬間をとらえるもの(中沢)」。新石器革命での農業のはじまりは、森にあったマンダラ的思考方法から耕作地という線形思考への変化と重なり、そしてそれは都市をつくり出し産業革命へと進みます。その思考方法の極限の形として誕生したものこそ、原子核技術に他なりません。森と原発の思考方法には「循環」と「線形」の違いがあるのです。
小浜市若狭明通寺の住職であり、若狭で脱原発について運動を続ける仏教者の中嶌哲演氏は、大飯原発の3、4号機を再稼働させ24時間動かした場合、二千四百万キロワットという膨大な電力を得ることと引き換えに、広島に落とされた原子力爆弾の3発分に相当する放射性廃棄物、「死の灰」が吐き出されると指摘しています。もしこれが一年間続けば広島原爆の約千発分にものぼることになり、若狭で稼働している14基の原発がこの40年間で生み出した放射性廃棄物はじつに広島原爆の40万発分、国内54機では120万発分にもなります。「たった4、50年分の豊かな生活のために、100万年もかけて後始末をしていかなければならなくなった(中嶌)」。
死者を祀るニソの杜と、「死の灰」を生み出す原発を対比したとき、森のように朽ち果てることで新しい生命が生まれる「循環という死」と、朽ち果てることなく放射性廃棄物を未来に残していく「滞留という死」、二つの「死」がはっきりと浮かび上がってきます。ニソの杜が教えているのは循環型の死です。いとう氏は、森が新しい生命のための「過去」の死を象徴するのであれば、朽ち果てることのない原発は「未来の死」を象徴している、と切り分けました。「ニソの杜から日本の未来を考える」ということは、未来につなげていくのは滞留した死なのか、あるいは循環する死なのか、それを考えることに他なりません。
2012年3月から毎週金曜日に行われている首相官邸前の脱原発デモは、回を重ねるごとに人数を増やしています。多くの日本人の意識は、日本が脱原発に向かっていくことを望んでいるのではないでしょうか。しかし、そのためには長い道のりを忍耐強く歩んでいかなければなりません。その第一歩が、ニソの杜から踏み出されなければならない。柳田国男はこの地を日本の魂の根源地だとしました。「今日小浜でやったこのシンポジウムには『ここが始まりなんですね』と未来の歴史学者が記録してくれるような意義が与えられるのではないでしょうか。『生き延びること』『よりよい世界に向かっての意志を保ち続けること』これだけが長い道のりを支えるのです(中沢)」
大飯原発とニソの杜、原子と原始が背中あわせに存在する大島半島――。自然と祖霊を素朴な形で祀り、「死」を生命の循環として尊重してきた風土は、いま大きく異なるの価値観の狭間にあります。今回私たちが長年陸の孤島であった大島半島のニソの杜を訪れることができたのは、「青戸の大橋」、いわゆる原電道路が通ったおかげでした。この矛盾。そこに引き裂かれながらも、それによって失われたもの、忘れられてしまったものを考えなければならないのもまた私たちなのです。この先何百万年と残さなくてはならないものはなにか、ニソの杜は日本全体を考える上での一つのモデルになるのではないでしょうか。
終演後 みなさまお疲れさまでした!
金田久璋1943年福井県生。民俗学者・詩人。若くして民俗学者の谷川健一氏に師事して民俗学を学ぶ。著書に『あどうがたり』(福井新聞社)、『森の神々と民俗』(白水社)など。敦賀短期大学非常勤講師。日本民俗学会評議員、福井県文化財保護審議会委員、福井民俗の会会長代行、若狭路文化研究会会長。
中嶌哲演1942年福井県生。小浜市若狭明通寺住職。東京芸術大学中退、高野山大学仏教学科卒。学生時代、日本宗教者平和協議会にかかわり広島の被爆僧から「自分の足元で被爆者を探しなさい。」と言われたのをきっかけに、若狭で脱原発運動続ける仏教者。著書に『原発銀座若狭から』(光雲社)、『いのちか原発か』(小出裕章氏との共著、風媒社)など。
松村忠祀1936年福井県生。福井県坂井市三国町の海に浮かび、いまなお原生林の残る雄島を代々守っている大湊神社宮司。福井県立美術館学芸員、敦賀短期大学非常勤講師、福井市立美術館館長などを歴任。芸術への造詣も深い。
いとうせいこう1961年東京都生。作家、クリエーター。88年に小説『ノーライフ・キング』でデビュー。小説、ルポ、エッセイなどの執筆活動のほか、舞台での芝居・ライブ活動、テレビへの出演など幅広い表現活動を行う。著書に、『ボタニカル・ライフ』(講談社エッセイ賞)、みうらじゅんと新たな仏像の鑑賞を提案した『見仏記』シリーズ(角川書店)など。音楽家としても、日本のヒップホップの先駆者として今も活動中。
中沢新一1950年山梨県生。明治大学野生の科学研究所所長、グリーンアクティブ代表。思想家・人類学者。著書に『精霊の王』(講談社)『日本の大転換』(集英社)『野生の科学(近日発売)』(講談社)など。