3世紀前半に造られた東日本最古・最大級の古墳である高尾山古墳(静岡県沼津市東熊野堂)が、道路計画により消滅の危機に瀕しています。沼津市の都市計画道路「沼津南一色線」の建設予定地にあるこの古墳をめぐって、古墳近隣の住民有志は「高尾山古墳を守る市民の会」(杉山治孝代表)、「高尾山古墳を考える会」(瀬川裕市郎代表)、「高尾山古墳の保存を望む会」(吉田由美子代表)を結成し、保護を訴えてきました。2015年5月には日本考古学協会が保存と活用を求める異例の会長声明を出すなど、卑弥呼と同時代に造られたと思われるこの貴重な古墳の古代史的意義も明らかになってきました。署名運動や全国からの取り壊し反対の抗議がわき起こる中で、栗原裕康沼津市長は2015年8月6日の定例会見でこれまでの道路建設計画を白紙撤回し、「やみくもに道路建設を強行することはない。文化財保護との両立を目指す」と表明しました。しかし、古墳を破壊しようとする道路建設派の圧力はいまだに続いており、市長の表明通り古墳を守れるか、まだまだ予断を許さぬ状況です。住民有志は今後も市の動向を注視し、全国にむけて署名などの保存活動を継続していきますので、ぜひとも皆さんのご協力をお願いします。
※署名にご協力お願いします↓
Change org:沼津市:東日本最古・最大級の高尾山古墳を取り壊さないで!
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◎高尾山古墳を壊さないで!
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『週刊現代』2015.9.5号、9.12号に、高尾山古墳をめぐる中沢新一の論稿が掲載されました。 編集部のご厚意によりその一部を転載させていただくことができましたのでぜひご覧下さい。
中沢新一
「アースダイバー 神社編 道路と遺跡の戦い」より
ちかごろ静岡県沼津市で進行中の、古墳保存のために住民の起こしている運動は、アースダイバーにとって、見逃すことのできない重要な意義をもつものである。
東海道に位置するこの付近の土地くらい、道路がむき出しの支配力をふるっているところは、全国でもめずらしい。東海道新幹線と二本の東名高速道が、並行して走っているここは、多くの人にとっては、ただ移動するためだけの空間であり、そこが深みのある莫大な情報の蓄積されてきた場所であることなどは、ほとんど忘れられている。
そういう土地で、この道路と遺跡の戦いはくりひろげられている。遺跡を保存する意志をもった人々は、自分たちの住む土地が、移動や経済のためだけの空間ではなく、独自な歴史の深みをもっているという認識に立とうとした。そこでもしも、この人たちの意志が、道路計画に根本的な変更をもたらすことに成功したならば、そのことのもつ意義はきわめて大きい。他の土地よりもはるかに強大な道路の支配を、人間の意志によって押し戻すことができたという、貴重な実例となるからである。
この地の熊野堂地区の道路の動線は、ひどく混乱している。「熊野堂」というお堂と、背後の小山の上に建てられた「高尾山穂見(ほづみ)神社」の周辺道路は、そのため朝夕の渋滞に悩まされていた。そこでお堂と神社を移築して、小高い丘になっていたところを削って、都市計画道路を建設する案が、浮上したのである。しかし以前から、穂見神社の建つ小山は、じつは由緒ある古墳なのであると語る古老もいた。
道路計画の一環として発掘調査がおこなわれてみると、豈図(あにはか)らんや、そこはたしかに古墳であった。しかも、熊野堂の建てられていたのを前方部とし、穂見神社の建つ小山を後方部とする「前方後方墳」に間違いがなく、棺の副葬品からは、この古墳が西暦二三〇年ないし二五〇年頃に築造されたものであると推定された。ヤマトの女王卑弥呼の墓である可能性の高い、箸墓古墳が二百五十年頃の築造であるから、ここはそれよりも二十年ほど以前か、ほぼ同じ時期に築かれたことになる。
古墳本体の長さが六十米を超えていたところから、この古墳が地方首長の墓であり、副葬品に装身具よりも圧倒的に武具が多いところから、この人物がそうとうな権力をもつ、武人であったことを推測させる。このあたりは、奥駿河湾でもっとも早い時期から(旧石器時代から!)栄えていたところであり、考古学者のなかには、この古墳を二世紀末からこの地方で勢力を張った、「スルガ王」の墳墓とみなす人々もいた。
いずれにしても、駿河湾を囲むこの一帯に展開した日本人の歴史にとって、この古墳がきわめて重要な存在であることは、誰の目にもあきらかであった。ところが沼津市は当初、その事実を軽視して、いつものように「いちど計画したことは変更してはならない」、という道路行政の暗黙の掟にしたがって、古墳を削り取り、そこに道路を通す計画の実行を開始しようとした。その時以来、それに反対する住民との間に、緊迫した関係が発生した。
(中略)
高尾山古墳は、駿河の形成史に関わる、きわめて重要な情報を内蔵した、貯蔵庫なのである。土の粒子の一つ一つに、そのような情報が含まれている。現在の考古学が用いているテクノロジーでは解析できないが、将来の考古学には理解できるようになる情報も、そこにはたくさん眠っている。
そういう情報の貯蔵庫としての古墳は、道路という存在とは、真っ向から対立するような性格をもっている。道路の上を、高速でさまざまなヴィークルが、移動していく。それに乗って、人間と物品の空間移動は起こるが、目的地までの途中の道路は、意義ある情報を人間に伝えたりしない。
土木工事にとって、「土」はたんなる素材にすぎないだろう。余分な部分は削り取り、足りない所には土盛りをして、整地作業をほどこす。その上にコンクリートが被せられる。コンクリートには砂利が混ぜられているが、それもモノとして素材にすぎない。コンクリートと攪拌されて、均質素材に均されて、道路補強のために流し込まれる。
ところが古墳の土は、それとは反対に、人間の歴史に関する莫大な情報を含んでいる。それは土に保存された、人間活動の記憶である。その古墳が破壊されてしまうと、記憶は永久に失われる。かりに事前に学術調査をほどこした上で、削り取りがおこなわれたとしても、現代の学問の水準では、多くの貴重な情報がすくい取られないまま、消えてしまう。
そうなると、その地域は記憶を失った社会、未来へのヴィジョンもなくした社会になってしまう。短期的な経済的効率や生活の利便性のために、記憶喪失をした社会である。そうなると地域の住民は、自分たちがどこからやってきて、どこへ向かおうとしている人間なのかを考えるための羅針盤を失って、経済に翻弄される漂流者になってしまう。
高尾山古墳は、奥駿河湾に生きる人々を、経済社会のなかで漂流させないための岩礁となることができる。それを保存し、道路との共生を実現できたとき、この地域の得るものは莫大である。
(『週刊現代』2015.9.5号、9.12号より転載)